女流俳人 猪口節子の歌

彼女とは高校生の時知り合った。
感覚もやることも大人で自分とは別の世界にいるような気がしていたが
なんだか気があって知多半島の先端の野間の灯台の近くにある自宅に
お邪魔したり、卒業してからも彼女の友人と一緒に
遊びに連れて行ってもらったりした
そうこうするうちに自分も結婚し、障害のある子を生み
いつの間にか疎遠になっていった
わたしの幼なじみの同級生が彼女とずっと交流があり
「足が痛いといってるのよ」と聞いたがその少しあとで亡くなったという
骨肉腫だったという
彼女は平成二年に『角川春樹賞』受賞。そのあと「河」新人賞などの賞をとり
平成八年に五十首からなる『能管』で俳句研究賞を受賞した
今改めて読み返してみた
笛藤田流の藤田六郎兵衛重昭氏との生活の中で
身近にあった能管を題材にしたこの句集は
誰にでも詠める歌ではないと感じた

こころ惹かれた句は
薪能死者がもっとも美しき
  能管にうるし塗り足すそぞろ寒
  言ひにくきこと切り出すに春炬燵
  退屈と母がこぼしぬ葱の花
  梅三分先代と呼び父と言ひ

わたしの最も好きな句は
  一月一日片山九郎右衛門翁舞ふ

この句は575のリズムから外れてしまったけれど
どうしてもこれ以外にならなかったと本人の言葉がある
目の前に能の幽玄の世界が見えるような気がする
彼女の才能を惜しむ声は今も絶えることはない
 

能  管

 
笛を吹くのみの部屋あり煤払ひ 冬あたたか能の楽屋に針と糸
炭で炭割れば遥かな音のして 波音の日にけに寒き懸大根
一月一日片山九郎右衛門翁舞ふ 雪踏んでくる直面の翁かな
どの道も青空へ出る冬の山 白菜のひとつ縄抜けしてをりぬ
厨より呼び出されたる初写真 冬の納屋蝶結びにて閉ざさるる
吹初のともあれ口をすすぎけり しぐるるや笛の長さに笛袋
雪載せしまま大榾のくべらるる 内弟子のしかられてゐる春隣
唐織の金糸のほつれ春が来る 立春や笛の修理に桑名まで
蘆の角人集まれば船の出て ここよりは畦づたひなる涅槃寺
梅三分先代と呼び父と言ひ 傘さして反古を焚きをり茂吉の忌
蜆汁その闇に川あるはずの 雲の上に別の雲ある春まつり
うぐひすや牛乳箱が門前に 穴を出しそれも大蛇と騒ぎけり
退屈と母がこぼしぬ葱の花 揚雲雀ここにも天の岩戸かな
春の夜や池に榊の束漬けて 笛の音と巣燕の声ある日なり
言いにくきこと切り出すに春炬燵 花衣脱ぎたるあとの用事あり
幕張って楽屋としたる花曇 物狂ふ能や巣立ちの空があり
薪能死者がもっとも美しき 鶏糞の羽毛負吹かるる余寒かな
川底を日向のうつる梅若忌 八十八夜勝手口よりホース出て
すこやかに雨の上がりぬ帚草 葉桜や釘買いひに出てそれつきり
町川を藻のたなびける更衣 泣くためのシテの大きな扇かな
虫干しの家紋は尾張大根なる 水門に潮満ちてゐる茄子の馬
お隣の炎が先んじる魂迎へ 盆燈篭川から河へ出るところ
雁来紅葬の煮炊きのにぎやかな すゞしさの清経のゐる鏡の間
転ってみな団栗と呼ばれけり 稽古場にひとり居残る良夜かな

能管にうるし塗り足すそぞろ寒

葛引いて遠くの葛を揺らしけり


第十一回「俳句研究賞」受賞感想


昭和五十四年、角川春樹新人会で初めて"俳句らしきもの"を作った。
しばらくして吟行にも参加するようになった。
文字による表現方法の一つとしての「俳句」を知ったとき、私は内心ほく笑んだものだ。
歩きながら、食べながら、あるいはトイレの中でも俳句は作ることができた。
しかめっ面をして長時間、机にへばりついていなくてもいい。ものぐさな自分に
ぴったりの文芸だと思った。しかし、そんな思いはすぐに消し飛んだ。
定型と最短の詩形である俳句は、当然のことながら容易に門を
開いてはくれなかったのである。五七五の上五のために結局、朝となるまで
机に向かって悶々とすることもあった。
たとえば「吟行」でも"作る"ために知らない農家の土間を
無遠慮に覗きこむなどということを平気でしたものだ。
俳句は作るものではなく、季節に自分が溶け込むことだと、感じ始めたのは、正直言って
まだ最近のことだ。春には春のわたしとなり、夏には夏の私となる。
もちろん秋も冬も…ようやく自然の中で遊ぼうと思い始めている。
今回の受賞は、そんな思考錯誤をくり返してきた私には最高のプレゼントだった。
「俳句」というよりも、自然とその中の季節と定型の美しさを教えてくださった
「河」の先生方に厚く御礼申し上げたい。
そして俳句で得た大切な友人たちに心から、心からありがとうと言いたい。


「俳句研究」(富士見書房)平成八年六月号より転記

彼女は結局俳句という子供を残して旅立ったのだ。