生まれたころ

 

生後4日目


1975.5.7 破水から12時間以経ってようやく生まれました。
お腹の中にいたときからもそもそとしか動かなくて
初産の私にも、何かおかしいと言う予感がありました。
産声もなくて別室につれていかれてしばらくしてようやく一声
猫のような声で泣いた声を遠くの出来事のように聞いていました。

働いていて満足な栄養もとれなかったせいか?・・
風邪薬を飲んでしまったからか?・・
ヘビースモーカーの夫のタバコのせいもあるのか?・・といろんな思いが湧いてきました
冷え切った心は、娘に愛を感じることもあまりなかったような気がします。

泣きもしない、お乳も飲まない娘に絶望感がひたひたと心に染み渡ってきました。
かよを夫の母にみてもらって働くつもりの私でしたがそれも無理になり
実家の母に預けて、産後42日で職場復帰しました。
産休をまだ誰も取ってなかった頃で周囲の理解もあまりない中での産休でしたが
転属されてしまい通勤に時間のかかるところに通うことになりました。
駅から通った道の遠かったこと・・
産後42日後、ぎらつく日差しの中、駅から30分歩いたあの頃の
気の遠くなるような感覚は今も忘れることができません

姑は結婚が決まった頃に病気がわかり、体力的に育児は無理でした。
そんな中で私が経済的に困るとわかっている 母は「自分の命に替えて育てる!」と
献身的な子育てをしてくれたのです。
朝7時に実家まで送っていき帰るのは7時過ぎ・・・。
娘を迎えに行くともうご飯も食べてお風呂も入ったから
置いていったら?という母の言葉に、ついつい預けてしまうことが多かった。
母はわたしの身体を心配してそう言ってくれたのです・・
私は愛情が希薄だったのでしょうか。いまも自問自答しています
娘は後追いすることもなく「バイバイ」をするのです。
寂しさが湧いてきましたが反面、仕事と家事とで疲れて
それをいい事にしていたような気がしています。

3
ヶ月の頃、低温肺炎にかかっていることがわかり、
入院して全身のレントゲンを撮ったら、股関節形成不全で、
まったく股関節がダメという状態でした
その治療のために、リューメンビューゲルというドイツのベルトをつけて
肩から両足をつるという姿勢でお風呂も入らない生活が
3ヶ月以上続きました。

半年間は大また開きで三角形の体型だったので抱っこは大変。
首の座りも遅くて、だらりとした身体を抱っこするのは
体重は少なくても重たかった

仕事を悩んで悩んで続けていたので、休めない私に代わって
バスに乗ったりして医者につれて行ってくれたおばあちゃんはどれほど大変だったのかと
自分がこの年になってなおさらよくわかります。

それでも6ヶ月になると初めて声を出して泣きました
慌ててレコーダーで録音したものです

飲めないので離乳食は早く始めましたが
なんでも喜んで食べてお腹をこわすこともなく、熱を出すこともなくて
動かないので危ないこともなくそういう点では楽をしたのかもしれません

休めない仕事で、医者へ行くためには夫にも休んでもらうことも多く
通院ばかりの日々は私の中に疲れをためていきました・・