幼児の頃

 


 

実家では、子供と触れさせたいと、母が近所の子供たちに頼んで
遊びに来てもらうのですが、人が持つもの持つもの全部を
自分のだからと眉間に皺を寄せて嫌がるのです。
「どういう根性の悪い子だろうね」と母も嘆く始末。
きっと自分の育て方がいけないのかと不安だったのかもしれません。
実家には「ミミ」という非常におとなしい雌犬がいました。
この犬にひもをつけて、おもちゃの車に乗って放さないので
ミミは娘が「ば〜ば」といって入っていくと、そっと逃げて隠れていました。
それでも見つかってしまうと、怒りもせずいやいやながら付き合ってくれたのです。

絶え間なくくり返す中耳炎、そのあげく通院しているのにへぼ耳鼻科医だったのか
滲出性中耳炎になってしまっていて大学病院で切開してもらったり

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円玉飲み込んで取れなくて入院したり

コロニーへの通院も今のように高速ができていなかったので、
往復
5時間もかかって一日仕事で通いました。

歯のエナメル質が溶けてしまうので、いくら歯磨きしてやっても、
どんどん、磨り減ってしまうのです

あげく、菌が入って歯茎がすぐ膿むので抜歯しかなくて
月に何度もコロニーの障害児歯科に行くという生活でした

コロニーへの通院は今思い出しても本当に大変でした 

今と違って医療費は1歳までしか補助がなかったので
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歳で療育手帳を申請するまで、医療費の負担は大変でした。

3歳半に歩けるようになりようやく心に少し余裕ができてきました。
そしてお腹の中には新たな命が宿りました。
4歳になり、地元の保育園に行くことになりました。
初めての障害児保育に取り込むということで
保育園も受け入れ態勢を整えてくれたのです。
その頃は延長保育もなく、保育園に入れるために悩んだ末退職しました。
体は楽になりましたが、その当時医療費の助成は1歳までだけだったので
経済的には大変な時期を迎えました。

保育園では、心配をよそに周囲の理解をいただいて毎日が過ぎていきました。
PWSということを2歳半の頃、コロニーで診断されていたので
たった一枚同僚にもらった「お母さんキッチンの扉にカギをかけて」という記事を
コピーして理解していただくように渡したのです。担任とはひとりだけ特別な
連絡帳を作っていただいて、毎日情報交換しました。
そのときの連絡帳はいまだに大切にしてあります。
かよは今もこの頃の先生をちゃんと覚えていて、お会いするととても喜びます。
二年間の保育園生活で、先生方には本当によくかわいがっていただきました。
言い出したら聞かないこともうまく対処してくださって楽しい園生活を
送ることができたような気がします。
また4歳離れて妹が生まれ、その子をおんぶして手をつないで園の往復をすることで
徐々に、自分が育てていないというコンプレックスが減っていったような気がしました。