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2005.12.18

次女の結婚

 

 

2005.11.15

初孫誕生

2月に結婚した息子たちが子供ができたと告げたのは5月
一番上の子が健常ならとっくにこの手に孫を抱いていたはずのわたしたち
息子たちはなんでも自分たちでやるので、私たちは実感もわかずその日を迎えた
まだまだだといってたけど急に生まれると連絡を受けて病院に走った
間に合わなかったけど、生まれたてのほやほやの男の子に会えた
ガラスの向こうにいるその子は赤ん坊の名の通り真っ赤なあかちゃん
生まれたときに真っ赤な子は色が白いというから・・、もう身びいきだ
車を飛ばして駆けつけた息子もうれしそう
夫も信じられないくらいうれしそうだった
娘も抱っこさせてもらって笑顔があふれた

新しい命に幸多かれと祈る

 

2005.5.7

デブゴン30歳のバースデー

1975年5月7日デブゴンはこの世に誕生した
早いものでもう30年の歳月が流れた
長かったような短かったような・・
いつもはショートケーキなのだけど今夜はデコレーションを頼んでおいた
このケーキ屋さんは生クリームが余り甘くなくておいしいのだ
このところ毎日結構食べているので今日はヘルシーなものをと思って
豆腐や椎茸、筍などを豚ミンチでハンバーグにして和風あんかけソースにした
ムコ殿も来てくれて「お姉ちゃん誕生日おめでとう」と言ってくれたのですごい喜んだ
デブゴンにとって今までで一番のお誕生日だったと思う

ケーキの蝋燭をふき消す時は嬉しくて興奮で顔が真っ赤になっていた
プレゼントはあさって病院のために名古屋に出るのでその時に買ってやろう
ランチをとっても楽しみにしている

2005.5.2

My Birthday

ぞろ目の誕生日を迎えた
娘とムコ殿がケーキや私の好物のプレゼントで祝ってくれた
自分の誕生日には祝うこともなくケーキも買うこともなかったので
とっても新鮮で嬉しかった
一緒に飲んでご飯を食べてとても楽しかった
ムコ殿に感謝!
ボランティアをしている千代子さんからもかわいい花束が届いた
毎年忘れず送ってくれる
申し訳ないことだけどお花はほんとうに嬉しい
この世に生み出してくれた母はもう何もわからないけど
老人ホームに好物だったシュークリームを持っていって食べさせた
また今年一年元気でがんばらねば・・
私がこけたらみんなこけてしまう

2005.2.27

息子の結婚式

 

2005.2.8

31回目の結婚記念日

風邪で寝込んで布団の中で迎えた記念日
でも夫は気付きもしない
よくもここまでもったものだと自分で自分に感心してしまう
結婚したら親は子の礎だから時には
捨石になって子どもを育てていくこともある
親と言うものは、母というものはそういうものだと思う
でも一番いいのは親が幸せで暮らすことが子の幸せ
そいう意味でももっと人生を楽しんで生きていくことが大切だと思う
 

2005.1.1

2005年スタート

今日から平成17年、2005年酉年のスタート

「ひとりごと」のタイトルバナーを作ってみた
毎年、大晦日から夫の弟家族が遠くもないけれど舅の家に泊りがけで来る
すぐ近くにいる私たちが一番遠いところにいるような気がする
お昼はおさんどんをやりながら一緒におよばれした
息子も彼女を連れて顔を出した
地味な着物で現れた嫁さんに感嘆!本当にステキだった
着付けを習っているということだがこうやって着られたらいいな
夜は娘たちもきて一緒に夕飯を食べた
彼は正式な申込みをするということだったけど息子たちがいたので言い出せなくて
夜中近くなってしまった
夫は飲んでグーグー
またにするというけど、せっかく決心して来たのだから・・
お父さんを起こした

年賀の挨拶とともに結婚宣言をした彼に娘が泣き出して寄り添っている
「こういう子がいるけれど、がんばるから遠くから見守っていてね」とお願いした
かわいくてしょうがなかった娘がいよいよ他家の人となる
夫は何も言わないけれどさみしいのだろう
「あちらのお父さんやお母さんを大切にして、孫が生まれたらうんと
かわいがってもらえるように・・」
そうしてもらえなかった私たちの長い人生だったからそれが私の一番の願い
彼はお母さんに「将来向こうをみてあげることになるかもしれない」とまで言ってくれたらしい
そんな気持ちは私たちにはまったくない
ただ、見守って欲しい
そしておねえちゃんのピンチの時に手を差し伸べてやって欲しい・・
それだけが願いだ 母が元気だったらきっとこんな優しい穏やかな婿さんに大喜びをしただろうな

 

2004.12.31

2004年大晦日

2004年という年は実に波乱の年であった

災害列島日本と思いきや、アジア・アフリカで12万人も死者が出るという
津波で締めくくられた
北朝鮮から拉致被害者の家族が帰れたこと、オリンピック、球団のごたごた
大事な法案はドンドン決まり、ますます生活の不安、自分の国に対する
不安が増幅する
そんな中で息子が大学を卒業した
長い間、家のローンと学費とに縛られゆとりある生活とは程遠かった
さ、ちょっとゆとりがと思うつかの間、息子が結婚すると言う
そしてここにきて娘も来年?と言う感じになってきた
我が家にとっても「動」の年であった
来年が穏やかないい年になることを祈っている

自分自身もこのあとの人生の終末に向かってどう生きていくかの
節目の年になりそうな予感がする

 

2004.11.26

息子の入籍

来年2/27に結婚式を挙げることになっている息子だが
めったにない電話があって「戸籍謄本を取ってくれ」という
どうやら入籍をするらしい
彼女の誕生日である11/26日に入籍したいという意向らしい
夜になって訪れて二人で生まれた町の役所に届けたらしい
「全て・・らしいの寂しさよ」
自立心があるといえばいいけれどやり方が・・
このあと世の中をうまくわたっていけるのかと心配になる
男の子の親はさびしいものだ

 

2004.10.1

カミングアウト

次女は2年半前から1つ年上の男の子とつきあっている
開放的というか明るい家のようで、家族や親戚と一緒によく遊ぶ人たちで
今までに何度も大勢で北海道にボードや日本各地に盆暮れに連れて行っていただいている。
それなのにいつも彼のお出迎えは道路まで・・
こういう姉がいるということを言えないでいた・・
わかっているから言わないでと言う娘の気持ちがわかるので
触れないようにしてきた
でももう25歳になってしまった
いい加減な気持ちではないことはわかるので「言って見ると意外と
何だというようなことよ。勇気を出して言いなさいよ」と何度か言ってみた
「お母さんが言ってあげようか?」というと「自分で言うからいい」とは言うのだが・・

先週なにか揉め事があったのだろう週末に初めて会わなかった
そしてこの夜、2週間ぶりのデートから意外に早く帰ってきた
PCしているそばに来て、なんだかんだと陽気なのであれ?と思った
一緒にお風呂に入って、「言ったの?」というとはにかんで「うん」と・・
わたしの心にあったもやもやがぱ〜っ〜と晴れていくのがわかった
本当にうれしかった
一日二日経って、彼氏がなんて言ったの?とまた聞くと
「恥ずかしいから言いたくない」という
その言葉で胸が温かくなった
ずっと障害のある姉をもったことが娘の心の重石になっていた
付き合い始めた時に言えばよかったのに
どうなるかわからないのに言えなかったのだろう
遅くなればなるほど言い出せなくなってどれほど苦しんだであろうか・・
最近はストレスからひどい蕁麻疹になり痒みに苦しんでいた

ああこれで娘の心も軽くなることだろう
幸せを祈るばかりだ

この日、我が家に来て5ヶ月の愛犬ももも大人になったしるしがあり、
ドラもセリーグ優勝した
2004.10.1は忘れられない日となった

 

2004.9.19

婚約指輪

仕事の仲間だった友人の紹介で名古屋城のお堀に面した老舗ホテルでの
「宝飾展」に行ってきた
結納もないけどせめて婚約指輪くらいはと思ってお世話していただいた
まだ働き始めてお金もない息子のためにかってあげるつもりだった
ところが「いらん」という
「俺の気持ちわからんの?」という
娘と違って何かを話すとすぐ言い争いになってしまう
最近では、息子がいることを忘れていることに気づく
完璧親離れ子離れなのだろう
3人で行くつもりだったが、向こうのお母さんも行きたい〜〜!というので
お願いして招待券を4枚とっていただいた
一つ上の展示会だったようで、高級品が目白押し
お客もマダム風が…
息子たちは勝手に回って、私たちは自分の物を選ぶのに一生懸命(笑)
ここまで子供を育てたご褒美に最新デザインの
スイングする3連ダイアのネックレスをかった
向こうのお母さんとわいわいがやがやといろんなお店で楽しんでいると
店員さんたちがみんな驚く
嫁の親と姑だというと感心してビックリ

縁あって結ばれた子供の親だもの
あるがままを受け入れて、少しでも楽しい人生にしたいものね

友人の宝石専門家の叔父様が、候補に入れたものを
全部見てくださってアドバイスくださって、婚約指輪もいいのが選べたようだ
デブゴンちゃんはわたしに似てキラキラ大好き!
でも次女はほとんど無関心
二十歳にお祝いしたシンプルダイアの指輪もまったく使わない
わたしの持っているものは嫁さん行きだな
姑のもんなんかいらんって言われちゃうかな

今回の展示会はお土産のメロンつき
ホテル内のお店でのお食事もついていたのでお寿司屋さんで食べた
握りやお刺身、土瓶蒸し、みんなとってもおいしかった
帰りはまた母二人。デパートに寄って式のときに着る自分たちの物を見てお茶して帰った
娘のためにもこういう気さくなお母さんの娘さんと縁があって本当によかったと思う
 

2004.9.7

次女の誕生日

長女が歩けるようになってからでないと産めないと思って
次の子を産むのに4年空いてしまった
暑い間じゅうおなかの中に入れていたから本当に大変だった
暑くて寝られなくてよく外で涼んでいたっけ・・・

予定日が来ても、まったく生まれる様子がなくて2週間すぎてしまった
10ヶ月まで長女を母に預けて勤めていたわたしは
元気な子を生もうと毎日お昼に一品余分におかずをとってがんばって食べた
長女のような栄養失調のような子を産むまいと思って必死だった
病院に行って胎盤が老化するといけないから出そうということになった
陣痛促進剤を打って少し陣痛が来るのだけどまた治まってしまう

そんなことを1週間も続けて、もうこれはブージーという器具を使って出そうということになった
この病院ではめったに使うことがないというのだ
あ〜〜あわたし、どうして普通のお産ができないのだろう・・・と沈んだ
そしていよいよという時になってなんとかお産が始まってくれた
五体満足な子供でほっとしたが、顔には血管腫がある・・
女の子なのに・・5ヶ月頃会社のビルのすぐ近くで火災があり
屋上から見たからだろうか・・とまた自分を責めた
でも、お乳を元気に吸う姿は今まで経験したことのない
喜びと感動をわたしに与えてくれた
やることみること全てが初めての子供のようだった・・・
双子でも育てられそうなたっぷりのお乳を飲んでまるで横綱のように
かた太りの立派な優良児になった
長女の保育園が始まるので仕事をやめて子育てに専念したわたしにとって
毎日が驚きと新鮮な喜びに満ちていたものだ
高校の時には大学病院に行ってイギリスの形の単純性血管腫をレーザーで治療した
たいしたことはないけれど娘にとってはとてもいやだったんだろう
その後はぐっと明るくなったような気がする
小学校の時には優良児で表彰されたっけ
高校の時に性格が変わったように明るくなった
お友達がいっぱいできて勉強もバイトもがんばって大学も指定校推薦を貰った
本当に手のかからない子だったな・・
いつからかわたしの保護者のようにアドバイスをくれたり・・

小学校の時の将来なりたいものはという作文に書いたように
「保育園の先生」という夢を貫いた
わたしのような母親に育てられたからこそ反面教師で
いい子に育ったのかなあと思っている

いつまで経っても幼子のような気持ちがしているけれどもう25歳になってしまった
17歳の誕生日の時に、「16歳の誕生日おめでとう」を添えて
手紙を書いたこともあったっけ
1歳11ヶ月で下に弟が生まれたので、大好きなお乳から無理やり離されて
毎日寝られなくて泣いてかわいそうだったね
かわいくてしょうがないお父さんが股の間に挟むようにして寝たよね・・
2歳なのになんでもわかってお産のあとお手伝いをしてくれてなんて賢い子だろうと思った
わたしの生きる支えだった。この子にどれほど助けられたことだろう

「おかあしゃん、た・う・ん・べ・しゅ・と・っていうの?」
ピンクとうす水色のキキララの奇麗なダウンベストを買ってやったときに
喜んで言っていたこの言葉が 今も耳に残っている
ほんとうにかわいい子だった

いつか孫が生まれたときに娘のことをいっぱい話してやりたいと思う
それにしても童顔で細くて保育園に行く時はお下げにしているので
とても25歳にはみれないな〜

 

息子23歳の誕生日と婚約

2004.8.19

一番上と6歳はなれて末っ子の長男として息子が生まれて23年
長くて短かかった
この春大学を無事卒業して就職して家を離れた
理系だったので本当は院に進みたかったのではないかと思うのだが
父親の定年等のことを考えたのだろうか…
「もう勉強したくね〜」と言って勝手に就職先を決めてきた
3年来付き合っている彼女がこっちなので週末には
家に来なくともそっちには行く
男の子はそんなもんなんだろうネ
仕事がだんだんきつくなり、夏休みさえもらえないような職場でへとへとのようだ
そんな中での往復4時間近くかけての行き来が辛くなったんだろうネ
向こうの親御さんに将来を考えて交際していますと言ったそうで
お母さんがうれしかったと教えてくださった
娘の嬉しそうな顔がうれしかったと…
娘の幸せは母親の幸せだものね
そうなったら結婚に対し夢いっぱいの彼女は早速夢に向かってのゴーサイン
最近超人気の式場が一日だけ空いてたとかで二人で予約してきたという
大事なことを勝手に決めてきて事後承諾ということに対し
少々苦言を呈したが、親離れが完全に出来上がっているととればいいことなのかもしれない
結納もいらないということで、実質的なことに費用をかけようという
両家の意見が一致して我が家で一緒にご飯を食べて顔合わせとした

そして息子の誕生日のこの日に衣装選びのため式場に3人で訪れた
山口に出張の息子は昼から新幹線で式場に駆けつけた

純白のウェディングドレスはオーダー
痩せて背の高い彼女にはとてもよく似合う
何人かがいたけどうちの嫁さんが一番かわいいわ〜と早や身内びいき

向こうのお母さんと言いたい放題の会話も盛り上がって
コーディネーターのかわいいお嬢さんに、本当にいいですね〜と言われたのがうれしかった
疲れて機嫌の悪い息子がかわいそうでもあるが腹立たしくもあった
アパートに帰るという息子に彼女のキモチがわかり一緒に行きなさいと行って別れて
母二人で遅い夕食を済ませて帰ってきた

息子のかわいさは娘とはまた違う
胸の奥底から湧いてくる感情だと思う
だからこそ嫁と姑の問題が起こるのだろう
かわいいから失敗した母の息子育てを見ているのでことさら
息子にクールに接してきた気がする
最近になってちょっと惜しかったかな?と思うわたしである

 

七夕

2004. 7. 7

今夜は七夕
きのう娘の授産所では退職したおじいちゃん先生が
子供たちに笹を持って来てくれたらしい
今まで一度もそういうことをしたことがないところだから
さぞかし子供たちは喜んだことだろう
余った笹を持って帰ると言って聞かなかったらしく
笹の枝を持ってJRで帰ってきたらしい
授産所で短冊に担当の職員と新婚の新規の職員の
「子供ができますように」と書いたそうだ
「涙が出ました」と
連絡帳を見て知ったので笹のことを聞くと、怒られるかと思ったのか
笹が外においてあった
今日は帰ってから自分でせっせと色紙で飾るものを作っていた
出来上がってみたら
「おかあさんの手のりゅうまちがなおりますように」
「N先生の足がなおりますように」(笹を下さったおじいちゃんはリューマチ)
「Tさんのあかちゃんがうまれますように」(担当職員)
「kさんがケーキがじょうずになりますように」(シフォンケーキ担当職員)
「米がじょうずにかせますように」
「ももがおおきくなりませんように」
「巨人がゆうしょうしますように」
「ちゅうにちがかちますように」(一体どっちだ!!)

極めつけは、「ももと一緒にダイエットします」

いじらしい娘である

 

誕生日

2004. 5. 2

1950年に生まれたわたし。
いつの間にこんなに長い年月をうかうかと過ごしてしまったのだろうか。
幼いころから親孝行で言われなくても勉強もそれなりにできて・・
口が達者でよく叔父に弁護士になれと揶揄された。
自分はろくでもない父親で苦労をしている母にこれ以上何も心配をかけたくないと言う思い
ただ母のことだけを思っていくら辛くてもグレる事すらできない子供だったのだと思う。
小さいときは豊かで子守がついていたという。かすかに記憶のかなたにある私を呼ぶ声…
5歳まで一人っ子のように過ごした私は根本はわがまま者だと思う。
でも妹や弟が生まれ家庭の状態が変わってからはただただしっかり者を
演じるしかなかったのだ。
本当はもっと甘えてわがままを言いたかった。
今、 自分が3人の子供を持ってみて子供を一人前にするのは
なんて大変なことかとしみじみわかった。
しかし、子供は親を育ててくれる。
自分の悪いところをずばりと指摘してくれる娘。
私の悪いところをみんな受け継いだような息子。
こんなお母さんでわるかったね・・・としみじみ思う。
でも、精一杯やってきたんだよ。許してね。

「I was born.」

受身の意味を知ったのは中学生のころ・・
「おかあちゃん、生んでくれてありがとう」

 

旅立ちの春

2004.4.1

今日から四月。

息子はもう一週間以上前から就職先の会社に出ているが、今日この日から
父親の扶養から外れて新しい住所の所帯主となる。
感無量。
もう親のことなどすっかり忘れて新しい生活になじんでいるようだ。
思えば22年前娘二人の次に生まれてきた初めての男の子だった。
お産が始まり痛みに耐える中で「男の子みたいですよ。肩が広そう」と言われとっても嬉しかった。
男の子が出てくるなら絶対痛いとわめかないで生もうと心に決め歯を食いしばり
とうとう最後まで静かなお産をした。

男の子って、母親にとってなんと言う心強さを与えてくれるものだろうか・・
嫁いでから初めて感じた自分の居場所だった。

そんな息子なのに家が建て替えたいしお金がほしいという理由で、
次女を出産するまで働いた会社から急に声がかったのを機に、
彼が小学校1年生の夏から子供をホッポリ出して契約社員という形態でフルタイムで働き始めた。
9年のブランクは大きく、手書きからすべてPC入力に変わっていた。
そして毎日の残業・・・だが確実に経済的な生活は楽になった。

お姉ちゃんは障害の子、弟は一年生。

そんな二人を抱えて三年生の次女は本当によくやってくれた。
今思い出しても、本当に胸が痛む。
その当時のことを最近になってよく言う娘。
絶対共働きはいやだという。

その娘もこの4月の異動で勤める保育園がかわった。
繊細でものすごくよく気がつき働き者でどこに行っても骨惜しみしないで働く子。
今日から新しい園に行ってまたへとへとになって遅く帰ってきた。

手には大きなピンクのバラの花束が・・

どうしたのと聞くと、おととし担当した乳児のおばあちゃんが転勤したことを知り
新しい園までワザワザ持って来てくれたのだそうだ。
すごく泣いて別れを惜しんでくれて・・・嬉しかったと
一生懸命かかわってきた娘への最高のプレゼントだよね。
「あんなおばあちゃんに育てられるからいい子に育つはずだよね」とむすめ。
私もいつか孫に出会えたら絶対いいおばあちゃんになりたい。

明日からはデブゴンも新しいスタッフでスタートする。
どんなふうになるのか詳しくも何も聞いてないのでよくわからないが
長い間、言い続けてきたことでようやく少し道が開けたのかな・・

この春の旅立ちが未来に続く素晴らしい日々でありますように。

 

 

30回目の結婚記念日

2004. 2. 8

30年前の今日結婚した。
結婚の重要性とかもわかってなくて今考えるとその無分別さにあきれる
いろんなことがあったような、なかったような・・・
本当なら2/11の大安だったのだがひがらが悪いと8日になった
新婚旅行は羽田からガァムに飛び立ったがその前に東京で2日遊んだ
二度とない機会だからと友人の勧めで「東京高輪プリンスホテル」の
スイートに泊まったっけ。2泊目は共済の青山会館(笑)
無口な夫との人生はあまり楽しいこともなく淡々と過ぎてきた

誕生日でも結婚記念日でも なんの言葉もない。
たった一度結婚20年のときに宝石を買いにいこうと出かけた
見ているだけで買わない私に、封筒に入ったお金を・・

誕生石のエメラルドで囲まれたダイヤの指輪を買った
ぽつんと、「貯めるのに時間がかかった・・」と

今夜は自分でケーキを買ってきた
一つの区切りの年に、末っ子の息子が社会に巣立つ
いつまでも手の中にいる娘がいることで保たれてきた生活
しかし考えてみれば大病する家族もなくて
リッチにも極貧にもならず過ごしてきたこの30年

これはやはりちいさな幸せなのかもしれない

 

ネット記念日

2004. 1.10

3年前、50歳のお正月過ぎのこの日にインターネットに繋いだ。

LANの接続、設定・・何も知らないのに、必死になってやった。

それ以来自分の日常が大きく変わった。

人との交流の手段としてメールと言う大きなツールを手に入れた。

最初の一年はPCのトラブルにつぐトラブルに見舞われて泣きたくなる日々だった。

ハードディスクも2回交換、電源ユニットの交換、再セットアップは何度も・・

時々は蹴飛ばしてやろうかと思うくらいだった。

2年くらいいたってようやく安定して使えるようになった。

でも順調にいいマシンに恵まれていたら何もできずにただメールをするくらいだけになっていただろう。

トラブルも乗り越えてこそ自分の力になるということを経験した。

去年は年明けからタグの勉強を始めた。娘との長い間の経験を発信していきたいと言う

思いがパソコンを始める前からあったのだ。人にやれることは自分にもきっとできる。

そう信じてこのHPにこぎつけた。普通なら子離れしてたまにはゆっくりと旅行などできる年に

なっているのにあいも変わらずの日々を送っている。

そして時々は孤独に押しつぶされそうにもなる。

 

2004. 1. 6

早いものでもう今年も6日

今年は私たちは喪中で年賀状を出さなかった。

欠礼の挨拶状が出せなかった方たちからたくさん賀状をいただいて

手書きでぼちぼちとお詫びをかねて便りを書いている。写真つきのステキな年賀状が多いこと!

デブゴンが子供の頃には考えられなかった。いつも小さくなっていた気がする。

右手首を10年前に手術以来字を書くのがとても苦痛になった。

へたくそなのだ。大好きだったかなのお稽古もあきらめた。

とても疲れるので一度にたくさんは書けないが手書きの手紙もいいものだ。

でもやはりPCがあって本当によかった!

今のところ左手は参った状態だけど右手の痛みはあまりないのでボードは打てる。

PCがなかったらなにもしなかっただろうなあ・・・

かよには、吹き出しのあるデザインを選んで作ってやったので

その部分にどんな文を書くのかとっても楽しみだった。

授産所の仲間にはそれぞれにあわせての言葉が ,

またPWSの男の友達には「やさしくしてね。わたしもやっているから(健康食品を飲んでいること?)

ダイエットがんばって」と書いてあるので大笑い。

今日その返事が来て「やさしくしてるじゃないか」って。

同じ障害とは思えないほど賢い文面。個人差があるなあ。

彼女になってほしい人がいるようだ。GH療法を受けて男の子として自信をつけたようだ。

リストラにも負けずまた働くところがあったみたいだ。よかった。よかった。

ダイエットについては触れていない(笑)

 

2003.12.31

今年もあとわずか。

それにしても今年は、いろんな別れがあった・・・

5月5日のこどもの日には長い間一緒に過ごしたマリリン

8月10日には7歳下の末弟

12月14日には年の離れたお父さんのようなメル友

人の命の儚さに言葉もない

このHPを開いてすぐにBBSが紛糾し

ネットの世界の怖さを身にしみて感じた。

でもいろんな人の温かさにも触れ勇気を出してまた再開した。

が、それがみんなのトラウマになっているのか

また、仰々しいBBS参加規程によるものか

ひとりBBSっていう感じ。

そんな中、あのときの書き込みの当人からの謝罪が先日あった。

あの時は私もいろいろと悩んだけれどそれもみな

よき経験としていこうと心に決めていた。

それでも本人と心を開いて話せたことはすっきりとして

心が晴れやかになった。

これでまた新たな気持ちで新年が迎えられとても嬉しい。

雨降って地固まるかな?

来る年にはどんな出会いが待っているのだろうか・・楽しみ。